サントーム



乳幼児期における愛着に関してストレンジ・シュチュエーション法、つまりコンピューターで確認してからその後の乳幼児を安定した方向へと導く方法である。そこからこの乳幼児が安定型のラインでレギュレーションしていこうという発想である。ストレンジということは安定するように補強するという意味で強制するという意味ではない。乳幼児期にストレンジしないと回避型つまり主体性が欠落する。アンビヴァレント型つまり境界例のように思考パターンが上下に極端に揺れ動く(会話の内容がYES OR NOと二極の振動の中間が空隙になってしまう)。無秩序・無方向型つまり主体性の軸そのものが損壊しばらばらに思考が飛び散る(会話の内容の極そのものが自分の意図することと無自覚な方向へ捻じ曲がる)。そこで乳幼児の面倒を直接見る人間つまり大人が赤ん坊と肌で触れ合い砂遊びなどのごっご遊びをする必要がある。つまりコンピューターと人間双方で乳幼児を安定型(会話の内容が中間軸の間で微振動する程度)へ導く。
会話の軸を中間軸の微振動で長期に安定させるためには、赤ん坊の声を拾うことである。赤ん坊の泣き声をそのまま受容して自然な流れに溶かし込むと徐々に自然な会話ができるようになっている。赤ん坊の声を溢すと徐々に年齢を重ねていく赤ん坊の会話のフローが徐々に折り曲がり迷宮の奥底に陥落して目の前の現実とは違う地下室の会話になり、日常生活を営む人がやり取りする会話ではなくなる。つまりシニフィアンが全く適応不全な会話しかできなくなる。それでは日常生活を営むことはできなくなるだろう。このケースだと対話者や理解者がいなくなる。インターネットは日常生活と地下室の両方の会話を可能にする。インターネットは上下左右に地上と地下とを双方向に繋げることを可能にするが対角線上に繋げることもできる。インターネットは線ではなく樹木状に無際限に広がるので空間と時間と場所を越境して瞬時に無際限に繋げるクオリアであるの線である。会話はあくまでもカテゴライズである。地上と地下をインターネットを挟み込むことで混線した会話ではなくセンスでカテゴライズした会話適応力である。カテゴライズした会話適応力ができてからが発達である。発達と言及した際に個人同士のネットワークが広がり価値観や個性の多様さが相互共感しスパイラル状に上昇する。これが発達である。

上記を踏まえてメラニークラインとフロイトラカンの理論研究の尖端を超越してみよう。
メラニークラインの妄想分裂ポジションとディプレッシブポジションの差異を見てみよう。前者がようするにコントロール不能な分裂病、後者がコントロール可能な鬱病である。ラカン鏡像段階理論は生後6カ月のあたり、つまりクラインの妄想分裂ポジション時期と共鳴する。鏡像つまり透き通る鏡であり乱反射する可能性も含んだ鏡像段階理論である。


ラカン理論をダブらせるとクライン理論の差異が解消してサントームになる。病跡学の方向からぶつけるとフロイト批判になるがフロイトの先へ行くと病跡学が解消してラカンのいうサントームになる。乳幼児期心理学は既にピアジェがほとんど語り尽くしいるが、最新のコンピューターで乳幼児期の脳の構造を確認しておくことは必須になる。サントーム理論と最新のコンピューターをぶつけると双方とも更新していく形態になるが、サントーム理論の方が象徴界の向こう側まで達していることに留意する必要がある。コンピューターで宇宙の果てつまり象徴界を表現するとインターステラーのような映画になる。知覚を精巧に作成された映画と適宜に重ね合わせる、それは空中の梯子を駆け上がるイメージになる。4次元、5次元と空間の次元そのものが切り替わる。サントーム理論つまり6次元7次元と次元が上がる。倒錯でも錯綜でもない。つまり次元空間そのものがサントームと捉える必要があるだろう。印象論ではなく、サントームは次元空間を縦横無尽に飛び交うのだ。

実験心理学とは学問の先行研究でそこで積み上げられてきた膨大な知の蓄積の結晶である。

その知の結晶の塊を引き受けて現場で実践すのが臨床心理学である。知の蓄積の結晶を引き受けた泰斗がカウンセリングを行う。知の泰斗が最も重宝するのは会話術である。知の泰斗は会話のセンスのレギュレーションを縦横無尽に駆使する。心理療法という際にクライエントのレベルに合わせてレギュレーションして会話の結晶を徐々にあげていく。受容という際に先ずは知の泰斗はクライエントを安心させる。安心させてクライエントとの信頼関係が築けたらレギュレーションしてクライエント心のクラスターを上昇させる。上昇させるには知の蓄積の結晶を引き継いだ泰斗の腕力が必要不可欠になる。泰斗故にクライエントの心のクラスターに入り二人共に心のクラスターを上昇させる。心のクラスターに共に入るが故に二人の関係が生涯途切れることはない。共に知の結晶となり上昇し合うのである。学問の結晶の泰斗がクライエントに否、悩み多きが故に「未来への無限の可能性を秘めている青年」が大空に翼を大きく羽ばたかせ、流星になってもらうために知の結晶を授けるのである。セラピストとクライエントという対比という二元論は使いたくない。できるならばクライエントという言葉も使いたくない。研究するサイドとしてはわかりやすくセラピストとクライエントと対比しなければ先行研究が積み上がらない。なので知の結晶の学問を積み上げるためには言葉をカテゴライズする必要上クライエントという言葉がある。気を付ける点は臨床の実践では知の結晶を積み上げそれを引き受ける勇気がある泰斗が臨床ないし人生相談をやるべきである。付け加えれば複数人で人生相談を引き受けた方がより効果的である。現在、医療現場でチーム医療が最重要視されているのと符合する。その人物の力量にもよるが宗教学、キリスト教、特に仏教を極めた人物が最適ではなかろうか。仏教は一神教ではなく極めるという発想が無い点に注意していただきたい。仏教がより柔軟にかつフレキシブルで自由な宗教という点。具体的には仏教の発祥地インドにはビートルズからYMOまで世界中から国籍や人種関係なく集まっていたし現在でも集まっている。ハイブリッドな異種混合と言う際に産業社会のレールに組み込まれたニューヨークという街を彷彿させる。しかし魂を超えたマトリックスという際にイメージするのはインドという「場」である。オーバー・ソウル・マトリックス・インドにラピスラズリの結晶が煌めくのだ。
泰斗が知の結晶の学問という際に果たして心理学という枠内に囚われるだろうか。むしろ魂の上昇を優先する。臨床心理士という制度の枠内で本当の意味で共感的理解を築くのはほぼ不可能に近い。制度の枠で括り付けて枠を超えさせることを不可能にするのではなく制度を越境した自由な世界。知の結晶の塊を引き継いだらそこから世界観が飛躍的に広がる。その広がった世界観の大海原。そこがアジールである。地球の引力を振り切り銀河系の向こう側へ突き抜けるための煌めく知の結晶。宇宙のブラックホールの吸引力からの逃走劇・創造的なエナジーが迸る瞬間。その一瞬の煌めきが臨床ではなかったか?プレイ(遊び)しながらセラピー(補助)する。そして相互共感することでクライエントとセラピストはその時制度の枠内を越境した永遠の少年の姿になっている。つまり二人は永遠の友愛に包まれている。