ジェイムス・ジョイスと大江健三郎

言語・都市・時間を巡って

 

ジョイスはダブリン出身で英語で『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』を発表した作家である。英語という言語をカンマ、ピリオド、引用符、大文字をあえて使用しないで、全て小文字に平坦化させて読み手に解釈の余地を大幅に残しておく。言語を何層にも縫い合わせ、深層の複雑な構造から表層の水平構造へと向かう。複雑に絡み合う情念の言語を、水平に交錯する言語で組み合わせる。フィネガンズ・ウェイクでいえば解釈を一切拒むと言えるだろう。他方で大江健三郎は原稿用紙に平仮名と漢字と片仮名で、無意識から立ち上がる感情を諧謔とユーモアを交えながら小説空間にいる意識へと縦横無尽に立ち上げる。ジョイスはダブリンという都市の麻痺の中心と、住処の不在を母校の欠落という英語で中心の不在を問うが、大江健三郎は四国の森といういわば現代と過去が特異な神話的時空で結ばれる中心を日本語で結ぶ。四国の森は大江の意識の中にある個人的な体験を時間と空間を少しずつずらしながら現代へその都度改編していくと言い換えてもよいだろう。その意味では大江は自身が自己言及するような実存主義者でもなく、ましてや遅れてきた構造主義者でもなく、その都度、自己定立するアーティスト(自身が動きながら全体の動きを捉える)なのである。ジョイスはこの全体の動きを更に自覚的に操作していると言えるだろう。ジョイスが不在の中心を問うとは周辺の断片から其処を推測することである。大江が中心を問うとは個人的な体験の中心を問うという意味である。両者とも神話を駆使するがジョイスギリシャ神話に対して大江は四国の森の神話である。前者がメタフィジカルであるのに対して後者はメタフィクションである点が大きく異なる。神話の枠組みを採用しながら、ありふれた市井の人々を描き、日常生活の可能性を明らかにした。なぜジョイスが英語やダブリンに愛憎半ばなのは、言うまでもなくアイルランドである。いわばこの点でジョイスは作品を宗教よりも芸術重視へと駆り立てた。時間の圧縮という点ではジョイスは1日の出来事を『ユリシーズ』で8つのパラグラフに分け8を横に倒し♾無限の時間を暗示する。無限の時空の中に、聖書、ダンテ、シェイクスピアを引用し、様々な文化的事象を埋め込む。他方で大江はレイトシリーズ手前『燃え上がる緑の木』を3部構成に分割し、一部で物語の重鎮オーバーを、3部でギー兄さんを葬り去ることで壮大な四国の物語に終止符を穿つと同時にレイトシリーズを開始する。ジョイス、大江、共に語法と時制、現在と過去の往復に成功していることは間違いない。