integration

ドイツの作家カフカの『城』と日本の夏目漱石草枕』この二人の作品及び作家の関連を論じる。

相互の特質としてはその後の未来(あるいは個人としての心の瞬間)を予言(あるいは通過と言い換えても良い)した点である。

言語の置換作用とは言い得て妙であり(瞬間)、かつ表現の要(判断力)になることは周知の前提に立ち以下の議論を展開する。

換喩と隠喩は当然の前提としてある。そのことはここで論じる課題ではない。ストーリーテリングインパクトに欠かせないのは韻文に散文を挟み込むコントラストである。つまりこう整理できる。退屈な小説は水平線をだらだらぐだぐだあたかも自分の人生相談や他者への恨みつらみを独り言のように語る。もちろんだがつまらない。では面白い小説とはそもそも何か?ストーリーテリングが三次元で読み手の頭脳に明晰に描かれていく小説である。漱石の『草枕』の言葉を引用しよう。宇宙(よのなか)について抽象的に書いても意味がない。音楽だ、と。すると宇宙を描くように小説を構成できるだろう、と。それはもちろんだが建築のビジョンが漱石の頭脳に予め描かれていたのは言うまでもない。これをカフカの小説『城』つまり建築物としての城に置換してみよう。すると作用が際立つだろう。もう一度戻すと言語の置換作用と冒頭に書いておいた。さて駄作と傑作の決定的な差異を以下に簡潔に論じてみよう。

まずは簡単に説明できる駄作である。要するに忘却してしまうのである。なぜ退屈なことを書くのか?根拠は言うまでもなく個人の些細でどうでもいい事柄しか書くテーマつまり興味と視野がないのである。それは明晰でもなく、ましてや刺激でもなく単純に鈍い(退屈)のである。

さて傑作のほうへ興味を向けよう。正確にはそっちの方にしか関心がない。なぜならわざわざ駄作を読む時間などないからである。作家も作品も必要なのは観察力と勘の鋭さである。見えるものと見えないものを明晰に書き手と読み手に見せる(あるいは魅せる)。これは単純に言葉の配置を正確に組み込むだけでは表現不可能である。この観点から知情意、あるいは現実、理想、合理性を明晰にかつ簡潔に描く画(未来へのヴィジョン)に成るだろう。もちろんだが成るは瞬間の出来事である。

ドイツ語で描かいたカフカの小説はもちろんだがカフカ自身がユダヤである。ドイツの役所の傷病関連の勤務場所に配属されたカフカの才能は『城』に顕著に見受けられるように城の内部構造(つまりドイツの官僚機構のストラクチャー)を描きたいがしかし自身では手にあまるという認識の前提で描かれた。漱石もイギリス(ヨーロッパ)の内部構造と自身の立ち位置の認識。つまり両者共に諸々の複合要因と立ち位置の差異から発生してくる矛盾を隈なく明晰に照らして見せた(描いた)点は共通であろう。

草のなかで枕を敷いて描く漱石、あるいは城の庭園の椅子に座りながら描くカフカ。これこそが二人の文学者、いやアートとサイエンスの統合でありネイチャーの核心の住処である。