崇高について

まずは、芸術作品は合目的な快、つまり自然美を唯一の「基準」からの体系構造から立ち上がるとすると、芸術は崇高といった美的範疇もこの「基準」に関与する限りで解明を受けることになる。構想力と理性との合目的な合致という心理状態が理念に対する讃嘆という感情から立ち上がっていく際、それは崇高もまた道徳的感情に関して合目的的なのである。象徴とはフランスの美学者Eugéne Véronの『美学』という本を中江兆民が翻訳したの『意氏美学』から由来した言葉である。

①作品 ベラスケス『ラス・メニーナス』 8章
絵画の登場人物全員がこちらつまり国王夫妻を見ている。しかし国王夫妻は左の鏡に映っている。目立つ貴族は全面に配置してある。一番奥の目立たない場所に侍従が配置されている。鏡に国王夫妻を隠すことでヴェールで覆い隠し崖の向こう側の世界に鑑賞者を落とし込む。崖の向こう側の鏡像の仮想世界で権力のパワー配分の配置を見事に光線で表現している。崖の向こう側の乱反射する世界から現実世界をΔiのラグでクリアカットに逆反射されて魅せる。これは現実世界の隠喩をクリアカットで高画質のように完璧に乱反射することを可能にするためΔiの瞬間のラグを光線の直感で射抜く。崖の向こう側のラグの瞬間のΔi。モーツァルトの第三光線がΔiの相互に交差する。Δiこそ一番奥の侍従のカーテンを動かす瞬間ではなかったか。


②作品 モロー『ヘロデ王の前で踊るサロメ像』15章
この作品は濃い緑で描かれており男のヘロデ王に仕える女性の臣下を描いている。濃い緑で描くことで全体の雰囲気に無駄な装飾や快楽を省き奥行きのある重厚感をもたせている。ヘロデ王に仕える女性のサロメがモローが象徴で描くことでヘロデ王サロメの内面感情をミクロ細部まで魅せることを可能にしている。アラビア風の宮殿なのだが同時に象徴的に描くことでアラビア文化の本質を見抜きその本質のハードコアを掴み一瞬ズラす。第三光線の光は不気味なグリーンにの光線にギアチェンジしてデモーニッシュな黒光りにメタモルフォーゼする。

ベラスケスはハプスブルグ家というヨーロッパ最高権力者の貴族を鏡像の中に閉じこめることで大衆に権力者の正確な姿を暗示した。複数の登場人物の配置を第三光線で光で権力のパワーバランスを正確に位置し増減を配置している。ベラスケスは「見えるものと見えないもの」つまりメルローポンティの遺作『見えるものと見えないもの』と「鏡」つまりラカンの『エクリ』が同時に全面に出ている。崖の向こう側の世界。そこはフーコーの美しいジュピターのメロディーで書かれた『言葉と物』の冒頭の扉絵の世界ではなかったか。光線のような芸術。あたかもピエール・ブーレーズが指揮台にあがりオーケストラの大海原の音を切り裂くように。モローは女性1人のみ登壇し象徴絵画で女性のパワーバランスを正確な「位置」にコンダクトした。指揮者のいないオーケストラ。いやスタインウェイCD318の鍵盤をジュピターの美しい手でルパートを排しルネサンス的グレン・グレードの継続するパルスである。
時代背景だがベラスケスは17世紀というカトリックスペインを中心とした「宗教抗争」の中で正確な権力配分の在り方を芸術で隠喩で表現した。他方モローは19世紀という第一次世界大戦という「経済抗争」の中で正確な権力配分を隠喩で表現した。二人は隠喩という象徴界のジュピターの芸術家である。

言うまでもなく美学と最も深い関わりをもつ文化現象は、芸術である。人間の自己証示のひとつとして、もっとも普遍的な効果のあるものであるが、それを理論的に考える学問としての美学は、美を求め人間の可能性を問う人々にとって忘れてはならないものである。