仮想空間の建築家の難点

サイレント映画モンタージュ映画の美学的統一性

サウンドトラックによって引き起こされたサイレント映画の理想郷の絶頂をトーキーが突き崩した。デクパージュの観点からはサイレントとトーキーの断裂は皆無である。映像とはスクリーン上の表象に付け加えることのできる全てのものである。映像の造形性、モンタージュの多様な技法、舞台装置の様式、ミイキャップの仕方、演劇スタイル、そこには照明も加わりフレーミングが構成の仕上げをする。視野に見えない暗黙のデクパージュの中立性によってモンタージュの可能性は広がる。①平行モンタージュ②加速モンタージュ③アトラクションモンタージュ、と区分すると例えばグリフィスは平行モンタージュを発明し、離れた場所で起こる二つのアクションぼ同時性を双方のショットを交互に繋ぐこによって表現した。アベス・ガンスは加速モンタージュが速さを示す映像を実際に使用せずショットの長さをどんどん縮める演出で、観客を機関車の暴走に映るように錯覚させた。アクションモンタージュは同じ出来事には含まれないが別の映像を接続することで強める演出である。
芸術家とその芸術との間の深い対立、それが天才を突如老いさせ偏執と誇大妄想の塊にしてしまう。天才や才能とは相対的現象であって、歴史的状況との関連においてしか成長しないのである。ヴォルテールが演技で失敗したことを、ヴォルテールには悲劇の才能がなかったのだとするのは安易である。ヴォルテールの時代背景が悲劇に通じていなかったのだ。しかしラシーヌの悲劇を延命させたというのは物事の性質から的外れな解釈なのである。映画監督が大衆の趣味に公然と挑むような際にもその大胆さが意味をもつのは、自分の嗜好性と将来の望みと観客とのすれ違いにある。同時代の芸術で唯一比較可能なのは建築であろう。「なぜなら家は人が住めなければ意味がないからだ」。映画もまた、機能的な芸術なのである。