ベンヤミン

■構想 3部構成

ベンヤミンの歴史・弁証法・技術の概念を巡って

歴史(マルクス)・弁証法的形象(ベンヤミン)・技術(フーリエ

ベンヤミン弁証法

過去が現在と持つ関係は時間的・連続的なものである。しかしながら今とかつてあったものがもつ関係は弁証法的である。ベンヤミンは形象という概念を導入する。静止状態の弁証法こそが形象である。矛盾をあらゆる運動と生動性の源泉として捉える。静止状態の出会う場こそが言語の領域となる。

ベンヤミン弁証法ヘーゲルマルクスに近い。ただ付け加えるとベンヤミンはモードの観点を入れていることである。価値形態にモードを導入することによってファンタスマゴリーという性格を帯びさせる。モードを無期的物質として捉え有機的物質と結合させることで有機物を無機物化(モード化)させる。モードは時代の時間と関係がありモードの切り替わりが早ければ早いほどその時代はモード志向だといえる。マルクスの価値形態論にモードを接続することで経済現象をいわば流行現象も含めて多角的に捉えることを可能にした。肝心な点は流行現象に弁証法を接続させてもいるということだ。19世紀パリの風俗(モード)を扱いながらその視点は弁証法的形象に貫かれている。いわばミクロの視点でパリの風俗(モード)を扱いながらマクロな視点で19世紀の歴史の根源を弁証法的に洗い直している。

第三の視点としてベンヤミンが導入するのは技術である。モードと歴史の弁証法の洗い直しの指標として技術にベンヤミンは注視する。モードと歴史に挟み込まれた可能性としての技術をベンヤミンは特にフーリエに注目する。フーリエの技術の捉え方は後代の自然の搾取という観念とは無縁である。故に自然と相反するものとしての技術というものではない。技術のなかに自然と対になる側面があるにせよフーリエの発想はより柔軟で文学性の側面に富んだものである。したがってフーリエは自然をより創造性に富んだ活かし方を可能にした。具体的には数学である。数字に拘り惑星の周期や寿命また適切な労働人口等を具体的な数字で示している。数学的ユートピアは小宇宙を形成する。数学は技術の根本にあるものだからフーリエの数学的発想に基づくユートピア思想は技術の関係から観て重要である。抽象的な物や歴史を具体的な数字で示している。数字が指示している意味よりもその物語のセグメントの切り分け方が重要である。数字が起点となってフーリエの世界観はどんどん切り替わっていく。いわば数学的な数字という技術をベースにした機械装置である。「フーリエファランステールは人間機械と形容することができる。これは非難ではないし、またそれがなんらかの機械論的なものであると言っているのでもない。そうではなくて、その構造がきわめて複雑であると言っているのだ。ファランステールは人間からなる一つの機械である ベンヤミン『パサージュ論4』p142」。ベンヤミンが指摘しているように数字に基づいて構造がきわめて複雑である。複雑な構造を適切に表現するには数字が不可欠になる。ここで数字が不可欠になると言っているのは技術との関連においてである。フーリエの世界観は技術抜きに語ることはできない。フーリエの世界観が複雑であると同時に非常に明晰なのは数字に基づく技術があるからである。「自然が技術文明の勝利にもかかわらず、名も形もなきものにおとしめられていないということがわかる。つまり橋やトンネルそのものの純粋な構造だけが風景のメルクマークになっているのではなく、河や山が技術文明という勝者に打ち負かされた僕としてではなく、むしろ友達同士のように寄り添っている。山々の、壁で固めたトンネルの門をいくつもすり抜けていく鉄道は自分の故郷に戻っていくようだ。自分自身を作った素材が憩う故郷へと ベンヤミン『パサージュ論3』p225」数字はいわば切り替わり地点を表す記号だがその分物語に付与する意味内容という役割はない。数字は接続や延長や減算をあらわす。いわば数字というものはニュートラルで中性的なものである。その分自然との折り合いが上手くいきやすい。ベンヤミンが指摘しているように山や川と技術文明は通常だと対立関係になるのだがとりわけフーリエの技術の概念を駆使するとむしろ友達のように寄り添っているのである。おそらくフーリエのヴィジョンは科学文明よりも科学小説という側面が強かったのが一因だろう。科学小説は物語に科学的な根拠を与えることに主眼があるわけだがフーリエの世界観も同様に空想に科学的根拠を与えているとも言い換えられるだろう。ベンヤミンが指摘しているようにフーリエは科学技術的搾取という概念とは無縁である。技術へのまったく別の受容に道を拓こうとした際に科学小説を根拠に世界観を打ち立てたとするとその道が分かり易い。ユートピア社会主義となづけたのはマルクスだがマルクスが経済を科学で説明しようとしたのとは全く別の文脈でフーリエは物語に科学的根拠を据えていたと指摘できるだろう。技術は科学の複雑化と不可分な関係にあるがフーリエの場合だと多分に文学的要素が前面に展開されるため科学的側面は背景に退く。科学小説がある時代の科学を反映しているようにある時代の物語も反映しているのである。マルクス以前の物語に注目し過ぎるあまりその文学的先進性にあまり注目されなかった傾向がある。社会実践の段階に入る際に科学や技術の社会への具現化が問われるが経済現象を科学的に説明したマルクスの段階よりも物語を科学的に説明したフーリエの段階がたとえ科学や技術が実践レベルで具体性にかけていたとしてもとりわけ調和社会というヴィジョンに適合性が合う。全体制の適合力の範囲が巨大化する分マルクスの理論はマクロなヴィジョンであり全体制の適合力の範囲が個人の感性レベルから立ち上がる分フーリエの理論はミクロコスモスなヴィジョンだと言えるだろう。マルクスの理論に対してフーリエの理論は科学的根拠が足りなかったという視点ではなくある現象を説明する際にそれに見合った理論レベルで科学を使用するといえるだろう。それは科学に限らずある現象を記述する際の文学的な言語の密度も含まれるだろう。フーリエが駆使したのはとりわけ文学的な言語の方である。

 

■歴史

商品化と労働の抽象化は同時に生起するが労働に具体的な性格を持たせようとする際に商品化以前の形態まで遡及させてみると抽象という性格が労働から剥ぎ取られ具体的な主体的な労働になる。商品化という際に資本主義的様式の特有な根本性格を反映しているがこの資本主義的様式が商品化に囲まれる形で主体を疎外させるように機能する。無意識に疎外された労働者も商品化されていくことは指摘しておく。主体の外側で自動的に囲い込まれた労働の商品化は19世紀に起こった。言うまでもなくその作動する根本にあるのは資本主義的様式である。私的所有といっても根本は資本主義的様式のメカニズムの一因として存在するわけで根本的には物から商品という性格を剥ぎ取ることでしか私的所有は廃棄できない。そこで初めて主体化が起こることは言うまでもない。人間が本来主体の位置にあったものが資本主義的様式に取って代わられたのである。したがって疎外の根本条件は資本主義的様式が主体に位置づけられた、である。資本主義的生産が主体として振る舞う限りで人間の労働からの疎外の尺度となる。上部構造の社会の中では商品という形態で賃金と交換し合う。もちろん下部構造には資本主義的経済があるのである。正確には上部構造は経済政策を打ち出す政治だが根本は下部構造なのである。商品の交換形態として賃金がある。資本主義的生産様式において物はすべからく商品なのでありすべての物は賃金高で計量される。労働の商品化とは人間までもが賃金高で測られる事態を指す。言うまでもなく商品、賃金は資本主義的様式の一部である。人間の非人間化とでも呼ぶべき資本主義的様式の主体性は解体しては再生するを高速度で進行させる。その連続する時間が形づくる歴史は人間にとってどう捉えられるのか。「歴史は長い時間の連続の中で進歩するのではなく、その中のそれぞれの各点において高みに向かうという形での進歩をするものと定められているのだから科学の進歩が、そのまま人類の進歩であることはない。進歩というものがありうるとすれば、集積した真理内容が増加するにしたがって、同時にまた人類がその真理内容に参与できる度合が増し、またその真理内容についての洞察の明察度も増す場合に限られる ベンヤミン『パサージュ論3』p228」

真理内容に参与できる度合と洞察の明察度が同時に増す場合に限られるわけで資本主義的様式が多分に真理内容を含んでいるということにはならない。むしろここでいう洞察の明察度とは資本主義的様式全体の欠落を見抜くことにマルクスベンヤミンの主眼があるわけで見抜く欠落箇所をどう補うかによって真理内容の明察度も上がるといえるだろう。ここでの論考は資本主義的様式の欠落箇所を解いているのである。マルクスの図式だと資本主義の後に共産主義がくるが最初に指摘したように労働に具体的な性格をもたせようとする際に商品化以前の形態に「遡及させて」みると抽象という性格が労働から剥ぎ取られ具体的な主体的な労働になるのと「同様に」資本主義的様式を止揚させてみた「後で」共産主義を想定してみる。そこでは資本主義的様式の構造的メカニズムの欠落を問うことが主眼ではなく新たな社会の中での経済の在り方を提示することになる。ここで考えられる経済あるいは「進歩」とはベンヤミンのヴィジョンだとマルクスより前の時代のフーリエの思想である。フーリエはとりわけ科学と技術が全面に展開するが経済の人間の搾取や人間による自然の搾取という捉え方とは無縁である点にベンヤミンは注目している。

ジェイムス・ジョイスと大江健三郎

言語・都市・時間を巡って

 

ジョイスはダブリン出身で英語で『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』を発表した作家である。英語という言語をカンマ、ピリオド、引用符、大文字をあえて使用しないで、全て小文字に平坦化させて読み手に解釈の余地を大幅に残しておく。言語を何層にも縫い合わせ、深層の複雑な構造から表層の水平構造へと向かう。複雑に絡み合う情念の言語を、水平に交錯する言語で組み合わせる。フィネガンズ・ウェイクでいえば解釈を一切拒むと言えるだろう。他方で大江健三郎は原稿用紙に平仮名と漢字と片仮名で、無意識から立ち上がる感情を諧謔とユーモアを交えながら小説空間にいる意識へと縦横無尽に立ち上げる。ジョイスはダブリンという都市の麻痺の中心と、住処の不在を母校の欠落という英語で中心の不在を問うが、大江健三郎は四国の森といういわば現代と過去が特異な神話的時空で結ばれる中心を日本語で結ぶ。四国の森は大江の意識の中にある個人的な体験を時間と空間を少しずつずらしながら現代へその都度改編していくと言い換えてもよいだろう。その意味では大江は自身が自己言及するような実存主義者でもなく、ましてや遅れてきた構造主義者でもなく、その都度、自己定立するアーティスト(自身が動きながら全体の動きを捉える)なのである。ジョイスはこの全体の動きを更に自覚的に操作していると言えるだろう。ジョイスが不在の中心を問うとは周辺の断片から其処を推測することである。大江が中心を問うとは個人的な体験の中心を問うという意味である。両者とも神話を駆使するがジョイスギリシャ神話に対して大江は四国の森の神話である。前者がメタフィジカルであるのに対して後者はメタフィクションである点が大きく異なる。神話の枠組みを採用しながら、ありふれた市井の人々を描き、日常生活の可能性を明らかにした。なぜジョイスが英語やダブリンに愛憎半ばなのは、言うまでもなくアイルランドである。いわばこの点でジョイスは作品を宗教よりも芸術重視へと駆り立てた。時間の圧縮という点ではジョイスは1日の出来事を『ユリシーズ』で8つのパラグラフに分け8を横に倒し♾無限の時間を暗示する。無限の時空の中に、聖書、ダンテ、シェイクスピアを引用し、様々な文化的事象を埋め込む。他方で大江はレイトシリーズ手前『燃え上がる緑の木』を3部構成に分割し、一部で物語の重鎮オーバーを、3部でギー兄さんを葬り去ることで壮大な四国の物語に終止符を穿つと同時にレイトシリーズを開始する。ジョイス、大江、共に語法と時制、現在と過去の往復に成功していることは間違いない。

integration

ドイツの作家カフカの『城』と日本の夏目漱石草枕』この二人の作品及び作家の関連を論じる。

相互の特質としてはその後の未来(あるいは個人としての心の瞬間)を予言(あるいは通過と言い換えても良い)した点である。

言語の置換作用とは言い得て妙であり(瞬間)、かつ表現の要(判断力)になることは周知の前提に立ち以下の議論を展開する。

換喩と隠喩は当然の前提としてある。そのことはここで論じる課題ではない。ストーリーテリングインパクトに欠かせないのは韻文に散文を挟み込むコントラストである。つまりこう整理できる。退屈な小説は水平線をだらだらぐだぐだあたかも自分の人生相談や他者への恨みつらみを独り言のように語る。もちろんだがつまらない。では面白い小説とはそもそも何か?ストーリーテリングが三次元で読み手の頭脳に明晰に描かれていく小説である。漱石の『草枕』の言葉を引用しよう。宇宙(よのなか)について抽象的に書いても意味がない。音楽だ、と。すると宇宙を描くように小説を構成できるだろう、と。それはもちろんだが建築のビジョンが漱石の頭脳に予め描かれていたのは言うまでもない。これをカフカの小説『城』つまり建築物としての城に置換してみよう。すると作用が際立つだろう。もう一度戻すと言語の置換作用と冒頭に書いておいた。さて駄作と傑作の決定的な差異を以下に簡潔に論じてみよう。

まずは簡単に説明できる駄作である。要するに忘却してしまうのである。なぜ退屈なことを書くのか?根拠は言うまでもなく個人の些細でどうでもいい事柄しか書くテーマつまり興味と視野がないのである。それは明晰でもなく、ましてや刺激でもなく単純に鈍い(退屈)のである。

さて傑作のほうへ興味を向けよう。正確にはそっちの方にしか関心がない。なぜならわざわざ駄作を読む時間などないからである。作家も作品も必要なのは観察力と勘の鋭さである。見えるものと見えないものを明晰に書き手と読み手に見せる(あるいは魅せる)。これは単純に言葉の配置を正確に組み込むだけでは表現不可能である。この観点から知情意、あるいは現実、理想、合理性を明晰にかつ簡潔に描く画(未来へのヴィジョン)に成るだろう。もちろんだが成るは瞬間の出来事である。

ドイツ語で描かいたカフカの小説はもちろんだがカフカ自身がユダヤである。ドイツの役所の傷病関連の勤務場所に配属されたカフカの才能は『城』に顕著に見受けられるように城の内部構造(つまりドイツの官僚機構のストラクチャー)を描きたいがしかし自身では手にあまるという認識の前提で描かれた。漱石もイギリス(ヨーロッパ)の内部構造と自身の立ち位置の認識。つまり両者共に諸々の複合要因と立ち位置の差異から発生してくる矛盾を隈なく明晰に照らして見せた(描いた)点は共通であろう。

草のなかで枕を敷いて描く漱石、あるいは城の庭園の椅子に座りながら描くカフカ。これこそが二人の文学者、いやアートとサイエンスの統合でありネイチャーの核心の住処である。

仮想空間の建築家の難点

サイレント映画モンタージュ映画の美学的統一性

サウンドトラックによって引き起こされたサイレント映画の理想郷の絶頂をトーキーが突き崩した。デクパージュの観点からはサイレントとトーキーの断裂は皆無である。映像とはスクリーン上の表象に付け加えることのできる全てのものである。映像の造形性、モンタージュの多様な技法、舞台装置の様式、ミイキャップの仕方、演劇スタイル、そこには照明も加わりフレーミングが構成の仕上げをする。視野に見えない暗黙のデクパージュの中立性によってモンタージュの可能性は広がる。①平行モンタージュ②加速モンタージュ③アトラクションモンタージュ、と区分すると例えばグリフィスは平行モンタージュを発明し、離れた場所で起こる二つのアクションぼ同時性を双方のショットを交互に繋ぐこによって表現した。アベス・ガンスは加速モンタージュが速さを示す映像を実際に使用せずショットの長さをどんどん縮める演出で、観客を機関車の暴走に映るように錯覚させた。アクションモンタージュは同じ出来事には含まれないが別の映像を接続することで強める演出である。
芸術家とその芸術との間の深い対立、それが天才を突如老いさせ偏執と誇大妄想の塊にしてしまう。天才や才能とは相対的現象であって、歴史的状況との関連においてしか成長しないのである。ヴォルテールが演技で失敗したことを、ヴォルテールには悲劇の才能がなかったのだとするのは安易である。ヴォルテールの時代背景が悲劇に通じていなかったのだ。しかしラシーヌの悲劇を延命させたというのは物事の性質から的外れな解釈なのである。映画監督が大衆の趣味に公然と挑むような際にもその大胆さが意味をもつのは、自分の嗜好性と将来の望みと観客とのすれ違いにある。同時代の芸術で唯一比較可能なのは建築であろう。「なぜなら家は人が住めなければ意味がないからだ」。映画もまた、機能的な芸術なのである。

崇高について

まずは、芸術作品は合目的な快、つまり自然美を唯一の「基準」からの体系構造から立ち上がるとすると、芸術は崇高といった美的範疇もこの「基準」に関与する限りで解明を受けることになる。構想力と理性との合目的な合致という心理状態が理念に対する讃嘆という感情から立ち上がっていく際、それは崇高もまた道徳的感情に関して合目的的なのである。象徴とはフランスの美学者Eugéne Véronの『美学』という本を中江兆民が翻訳したの『意氏美学』から由来した言葉である。

①作品 ベラスケス『ラス・メニーナス』 8章
絵画の登場人物全員がこちらつまり国王夫妻を見ている。しかし国王夫妻は左の鏡に映っている。目立つ貴族は全面に配置してある。一番奥の目立たない場所に侍従が配置されている。鏡に国王夫妻を隠すことでヴェールで覆い隠し崖の向こう側の世界に鑑賞者を落とし込む。崖の向こう側の鏡像の仮想世界で権力のパワー配分の配置を見事に光線で表現している。崖の向こう側の乱反射する世界から現実世界をΔiのラグでクリアカットに逆反射されて魅せる。これは現実世界の隠喩をクリアカットで高画質のように完璧に乱反射することを可能にするためΔiの瞬間のラグを光線の直感で射抜く。崖の向こう側のラグの瞬間のΔi。モーツァルトの第三光線がΔiの相互に交差する。Δiこそ一番奥の侍従のカーテンを動かす瞬間ではなかったか。


②作品 モロー『ヘロデ王の前で踊るサロメ像』15章
この作品は濃い緑で描かれており男のヘロデ王に仕える女性の臣下を描いている。濃い緑で描くことで全体の雰囲気に無駄な装飾や快楽を省き奥行きのある重厚感をもたせている。ヘロデ王に仕える女性のサロメがモローが象徴で描くことでヘロデ王サロメの内面感情をミクロ細部まで魅せることを可能にしている。アラビア風の宮殿なのだが同時に象徴的に描くことでアラビア文化の本質を見抜きその本質のハードコアを掴み一瞬ズラす。第三光線の光は不気味なグリーンにの光線にギアチェンジしてデモーニッシュな黒光りにメタモルフォーゼする。

ベラスケスはハプスブルグ家というヨーロッパ最高権力者の貴族を鏡像の中に閉じこめることで大衆に権力者の正確な姿を暗示した。複数の登場人物の配置を第三光線で光で権力のパワーバランスを正確に位置し増減を配置している。ベラスケスは「見えるものと見えないもの」つまりメルローポンティの遺作『見えるものと見えないもの』と「鏡」つまりラカンの『エクリ』が同時に全面に出ている。崖の向こう側の世界。そこはフーコーの美しいジュピターのメロディーで書かれた『言葉と物』の冒頭の扉絵の世界ではなかったか。光線のような芸術。あたかもピエール・ブーレーズが指揮台にあがりオーケストラの大海原の音を切り裂くように。モローは女性1人のみ登壇し象徴絵画で女性のパワーバランスを正確な「位置」にコンダクトした。指揮者のいないオーケストラ。いやスタインウェイCD318の鍵盤をジュピターの美しい手でルパートを排しルネサンス的グレン・グレードの継続するパルスである。
時代背景だがベラスケスは17世紀というカトリックスペインを中心とした「宗教抗争」の中で正確な権力配分の在り方を芸術で隠喩で表現した。他方モローは19世紀という第一次世界大戦という「経済抗争」の中で正確な権力配分を隠喩で表現した。二人は隠喩という象徴界のジュピターの芸術家である。

言うまでもなく美学と最も深い関わりをもつ文化現象は、芸術である。人間の自己証示のひとつとして、もっとも普遍的な効果のあるものであるが、それを理論的に考える学問としての美学は、美を求め人間の可能性を問う人々にとって忘れてはならないものである。

サントーム



乳幼児期における愛着に関してストレンジ・シュチュエーション法、つまりコンピューターで確認してからその後の乳幼児を安定した方向へと導く方法である。そこからこの乳幼児が安定型のラインでレギュレーションしていこうという発想である。ストレンジということは安定するように補強するという意味で強制するという意味ではない。乳幼児期にストレンジしないと回避型つまり主体性が欠落する。アンビヴァレント型つまり境界例のように思考パターンが上下に極端に揺れ動く(会話の内容がYES OR NOと二極の振動の中間が空隙になってしまう)。無秩序・無方向型つまり主体性の軸そのものが損壊しばらばらに思考が飛び散る(会話の内容の極そのものが自分の意図することと無自覚な方向へ捻じ曲がる)。そこで乳幼児の面倒を直接見る人間つまり大人が赤ん坊と肌で触れ合い砂遊びなどのごっご遊びをする必要がある。つまりコンピューターと人間双方で乳幼児を安定型(会話の内容が中間軸の間で微振動する程度)へ導く。
会話の軸を中間軸の微振動で長期に安定させるためには、赤ん坊の声を拾うことである。赤ん坊の泣き声をそのまま受容して自然な流れに溶かし込むと徐々に自然な会話ができるようになっている。赤ん坊の声を溢すと徐々に年齢を重ねていく赤ん坊の会話のフローが徐々に折り曲がり迷宮の奥底に陥落して目の前の現実とは違う地下室の会話になり、日常生活を営む人がやり取りする会話ではなくなる。つまりシニフィアンが全く適応不全な会話しかできなくなる。それでは日常生活を営むことはできなくなるだろう。このケースだと対話者や理解者がいなくなる。インターネットは日常生活と地下室の両方の会話を可能にする。インターネットは上下左右に地上と地下とを双方向に繋げることを可能にするが対角線上に繋げることもできる。インターネットは線ではなく樹木状に無際限に広がるので空間と時間と場所を越境して瞬時に無際限に繋げるクオリアであるの線である。会話はあくまでもカテゴライズである。地上と地下をインターネットを挟み込むことで混線した会話ではなくセンスでカテゴライズした会話適応力である。カテゴライズした会話適応力ができてからが発達である。発達と言及した際に個人同士のネットワークが広がり価値観や個性の多様さが相互共感しスパイラル状に上昇する。これが発達である。

上記を踏まえてメラニークラインとフロイトラカンの理論研究の尖端を超越してみよう。
メラニークラインの妄想分裂ポジションとディプレッシブポジションの差異を見てみよう。前者がようするにコントロール不能な分裂病、後者がコントロール可能な鬱病である。ラカン鏡像段階理論は生後6カ月のあたり、つまりクラインの妄想分裂ポジション時期と共鳴する。鏡像つまり透き通る鏡であり乱反射する可能性も含んだ鏡像段階理論である。


ラカン理論をダブらせるとクライン理論の差異が解消してサントームになる。病跡学の方向からぶつけるとフロイト批判になるがフロイトの先へ行くと病跡学が解消してラカンのいうサントームになる。乳幼児期心理学は既にピアジェがほとんど語り尽くしいるが、最新のコンピューターで乳幼児期の脳の構造を確認しておくことは必須になる。サントーム理論と最新のコンピューターをぶつけると双方とも更新していく形態になるが、サントーム理論の方が象徴界の向こう側まで達していることに留意する必要がある。コンピューターで宇宙の果てつまり象徴界を表現するとインターステラーのような映画になる。知覚を精巧に作成された映画と適宜に重ね合わせる、それは空中の梯子を駆け上がるイメージになる。4次元、5次元と空間の次元そのものが切り替わる。サントーム理論つまり6次元7次元と次元が上がる。倒錯でも錯綜でもない。つまり次元空間そのものがサントームと捉える必要があるだろう。印象論ではなく、サントームは次元空間を縦横無尽に飛び交うのだ。

実験心理学とは学問の先行研究でそこで積み上げられてきた膨大な知の蓄積の結晶である。

その知の結晶の塊を引き受けて現場で実践すのが臨床心理学である。知の蓄積の結晶を引き受けた泰斗がカウンセリングを行う。知の泰斗が最も重宝するのは会話術である。知の泰斗は会話のセンスのレギュレーションを縦横無尽に駆使する。心理療法という際にクライエントのレベルに合わせてレギュレーションして会話の結晶を徐々にあげていく。受容という際に先ずは知の泰斗はクライエントを安心させる。安心させてクライエントとの信頼関係が築けたらレギュレーションしてクライエント心のクラスターを上昇させる。上昇させるには知の蓄積の結晶を引き継いだ泰斗の腕力が必要不可欠になる。泰斗故にクライエントの心のクラスターに入り二人共に心のクラスターを上昇させる。心のクラスターに共に入るが故に二人の関係が生涯途切れることはない。共に知の結晶となり上昇し合うのである。学問の結晶の泰斗がクライエントに否、悩み多きが故に「未来への無限の可能性を秘めている青年」が大空に翼を大きく羽ばたかせ、流星になってもらうために知の結晶を授けるのである。セラピストとクライエントという対比という二元論は使いたくない。できるならばクライエントという言葉も使いたくない。研究するサイドとしてはわかりやすくセラピストとクライエントと対比しなければ先行研究が積み上がらない。なので知の結晶の学問を積み上げるためには言葉をカテゴライズする必要上クライエントという言葉がある。気を付ける点は臨床の実践では知の結晶を積み上げそれを引き受ける勇気がある泰斗が臨床ないし人生相談をやるべきである。付け加えれば複数人で人生相談を引き受けた方がより効果的である。現在、医療現場でチーム医療が最重要視されているのと符合する。その人物の力量にもよるが宗教学、キリスト教、特に仏教を極めた人物が最適ではなかろうか。仏教は一神教ではなく極めるという発想が無い点に注意していただきたい。仏教がより柔軟にかつフレキシブルで自由な宗教という点。具体的には仏教の発祥地インドにはビートルズからYMOまで世界中から国籍や人種関係なく集まっていたし現在でも集まっている。ハイブリッドな異種混合と言う際に産業社会のレールに組み込まれたニューヨークという街を彷彿させる。しかし魂を超えたマトリックスという際にイメージするのはインドという「場」である。オーバー・ソウル・マトリックス・インドにラピスラズリの結晶が煌めくのだ。
泰斗が知の結晶の学問という際に果たして心理学という枠内に囚われるだろうか。むしろ魂の上昇を優先する。臨床心理士という制度の枠内で本当の意味で共感的理解を築くのはほぼ不可能に近い。制度の枠で括り付けて枠を超えさせることを不可能にするのではなく制度を越境した自由な世界。知の結晶の塊を引き継いだらそこから世界観が飛躍的に広がる。その広がった世界観の大海原。そこがアジールである。地球の引力を振り切り銀河系の向こう側へ突き抜けるための煌めく知の結晶。宇宙のブラックホールの吸引力からの逃走劇・創造的なエナジーが迸る瞬間。その一瞬の煌めきが臨床ではなかったか?プレイ(遊び)しながらセラピー(補助)する。そして相互共感することでクライエントとセラピストはその時制度の枠内を越境した永遠の少年の姿になっている。つまり二人は永遠の友愛に包まれている。