ベンヤミン

■構想 3部構成

ベンヤミンの歴史・弁証法・技術の概念を巡って

歴史(マルクス)・弁証法的形象(ベンヤミン)・技術(フーリエ

ベンヤミン弁証法

過去が現在と持つ関係は時間的・連続的なものである。しかしながら今とかつてあったものがもつ関係は弁証法的である。ベンヤミンは形象という概念を導入する。静止状態の弁証法こそが形象である。矛盾をあらゆる運動と生動性の源泉として捉える。静止状態の出会う場こそが言語の領域となる。

ベンヤミン弁証法ヘーゲルマルクスに近い。ただ付け加えるとベンヤミンはモードの観点を入れていることである。価値形態にモードを導入することによってファンタスマゴリーという性格を帯びさせる。モードを無期的物質として捉え有機的物質と結合させることで有機物を無機物化(モード化)させる。モードは時代の時間と関係がありモードの切り替わりが早ければ早いほどその時代はモード志向だといえる。マルクスの価値形態論にモードを接続することで経済現象をいわば流行現象も含めて多角的に捉えることを可能にした。肝心な点は流行現象に弁証法を接続させてもいるということだ。19世紀パリの風俗(モード)を扱いながらその視点は弁証法的形象に貫かれている。いわばミクロの視点でパリの風俗(モード)を扱いながらマクロな視点で19世紀の歴史の根源を弁証法的に洗い直している。

第三の視点としてベンヤミンが導入するのは技術である。モードと歴史の弁証法の洗い直しの指標として技術にベンヤミンは注視する。モードと歴史に挟み込まれた可能性としての技術をベンヤミンは特にフーリエに注目する。フーリエの技術の捉え方は後代の自然の搾取という観念とは無縁である。故に自然と相反するものとしての技術というものではない。技術のなかに自然と対になる側面があるにせよフーリエの発想はより柔軟で文学性の側面に富んだものである。したがってフーリエは自然をより創造性に富んだ活かし方を可能にした。具体的には数学である。数字に拘り惑星の周期や寿命また適切な労働人口等を具体的な数字で示している。数学的ユートピアは小宇宙を形成する。数学は技術の根本にあるものだからフーリエの数学的発想に基づくユートピア思想は技術の関係から観て重要である。抽象的な物や歴史を具体的な数字で示している。数字が指示している意味よりもその物語のセグメントの切り分け方が重要である。数字が起点となってフーリエの世界観はどんどん切り替わっていく。いわば数学的な数字という技術をベースにした機械装置である。「フーリエファランステールは人間機械と形容することができる。これは非難ではないし、またそれがなんらかの機械論的なものであると言っているのでもない。そうではなくて、その構造がきわめて複雑であると言っているのだ。ファランステールは人間からなる一つの機械である ベンヤミン『パサージュ論4』p142」。ベンヤミンが指摘しているように数字に基づいて構造がきわめて複雑である。複雑な構造を適切に表現するには数字が不可欠になる。ここで数字が不可欠になると言っているのは技術との関連においてである。フーリエの世界観は技術抜きに語ることはできない。フーリエの世界観が複雑であると同時に非常に明晰なのは数字に基づく技術があるからである。「自然が技術文明の勝利にもかかわらず、名も形もなきものにおとしめられていないということがわかる。つまり橋やトンネルそのものの純粋な構造だけが風景のメルクマークになっているのではなく、河や山が技術文明という勝者に打ち負かされた僕としてではなく、むしろ友達同士のように寄り添っている。山々の、壁で固めたトンネルの門をいくつもすり抜けていく鉄道は自分の故郷に戻っていくようだ。自分自身を作った素材が憩う故郷へと ベンヤミン『パサージュ論3』p225」数字はいわば切り替わり地点を表す記号だがその分物語に付与する意味内容という役割はない。数字は接続や延長や減算をあらわす。いわば数字というものはニュートラルで中性的なものである。その分自然との折り合いが上手くいきやすい。ベンヤミンが指摘しているように山や川と技術文明は通常だと対立関係になるのだがとりわけフーリエの技術の概念を駆使するとむしろ友達のように寄り添っているのである。おそらくフーリエのヴィジョンは科学文明よりも科学小説という側面が強かったのが一因だろう。科学小説は物語に科学的な根拠を与えることに主眼があるわけだがフーリエの世界観も同様に空想に科学的根拠を与えているとも言い換えられるだろう。ベンヤミンが指摘しているようにフーリエは科学技術的搾取という概念とは無縁である。技術へのまったく別の受容に道を拓こうとした際に科学小説を根拠に世界観を打ち立てたとするとその道が分かり易い。ユートピア社会主義となづけたのはマルクスだがマルクスが経済を科学で説明しようとしたのとは全く別の文脈でフーリエは物語に科学的根拠を据えていたと指摘できるだろう。技術は科学の複雑化と不可分な関係にあるがフーリエの場合だと多分に文学的要素が前面に展開されるため科学的側面は背景に退く。科学小説がある時代の科学を反映しているようにある時代の物語も反映しているのである。マルクス以前の物語に注目し過ぎるあまりその文学的先進性にあまり注目されなかった傾向がある。社会実践の段階に入る際に科学や技術の社会への具現化が問われるが経済現象を科学的に説明したマルクスの段階よりも物語を科学的に説明したフーリエの段階がたとえ科学や技術が実践レベルで具体性にかけていたとしてもとりわけ調和社会というヴィジョンに適合性が合う。全体制の適合力の範囲が巨大化する分マルクスの理論はマクロなヴィジョンであり全体制の適合力の範囲が個人の感性レベルから立ち上がる分フーリエの理論はミクロコスモスなヴィジョンだと言えるだろう。マルクスの理論に対してフーリエの理論は科学的根拠が足りなかったという視点ではなくある現象を説明する際にそれに見合った理論レベルで科学を使用するといえるだろう。それは科学に限らずある現象を記述する際の文学的な言語の密度も含まれるだろう。フーリエが駆使したのはとりわけ文学的な言語の方である。

 

■歴史

商品化と労働の抽象化は同時に生起するが労働に具体的な性格を持たせようとする際に商品化以前の形態まで遡及させてみると抽象という性格が労働から剥ぎ取られ具体的な主体的な労働になる。商品化という際に資本主義的様式の特有な根本性格を反映しているがこの資本主義的様式が商品化に囲まれる形で主体を疎外させるように機能する。無意識に疎外された労働者も商品化されていくことは指摘しておく。主体の外側で自動的に囲い込まれた労働の商品化は19世紀に起こった。言うまでもなくその作動する根本にあるのは資本主義的様式である。私的所有といっても根本は資本主義的様式のメカニズムの一因として存在するわけで根本的には物から商品という性格を剥ぎ取ることでしか私的所有は廃棄できない。そこで初めて主体化が起こることは言うまでもない。人間が本来主体の位置にあったものが資本主義的様式に取って代わられたのである。したがって疎外の根本条件は資本主義的様式が主体に位置づけられた、である。資本主義的生産が主体として振る舞う限りで人間の労働からの疎外の尺度となる。上部構造の社会の中では商品という形態で賃金と交換し合う。もちろん下部構造には資本主義的経済があるのである。正確には上部構造は経済政策を打ち出す政治だが根本は下部構造なのである。商品の交換形態として賃金がある。資本主義的生産様式において物はすべからく商品なのでありすべての物は賃金高で計量される。労働の商品化とは人間までもが賃金高で測られる事態を指す。言うまでもなく商品、賃金は資本主義的様式の一部である。人間の非人間化とでも呼ぶべき資本主義的様式の主体性は解体しては再生するを高速度で進行させる。その連続する時間が形づくる歴史は人間にとってどう捉えられるのか。「歴史は長い時間の連続の中で進歩するのではなく、その中のそれぞれの各点において高みに向かうという形での進歩をするものと定められているのだから科学の進歩が、そのまま人類の進歩であることはない。進歩というものがありうるとすれば、集積した真理内容が増加するにしたがって、同時にまた人類がその真理内容に参与できる度合が増し、またその真理内容についての洞察の明察度も増す場合に限られる ベンヤミン『パサージュ論3』p228」

真理内容に参与できる度合と洞察の明察度が同時に増す場合に限られるわけで資本主義的様式が多分に真理内容を含んでいるということにはならない。むしろここでいう洞察の明察度とは資本主義的様式全体の欠落を見抜くことにマルクスベンヤミンの主眼があるわけで見抜く欠落箇所をどう補うかによって真理内容の明察度も上がるといえるだろう。ここでの論考は資本主義的様式の欠落箇所を解いているのである。マルクスの図式だと資本主義の後に共産主義がくるが最初に指摘したように労働に具体的な性格をもたせようとする際に商品化以前の形態に「遡及させて」みると抽象という性格が労働から剥ぎ取られ具体的な主体的な労働になるのと「同様に」資本主義的様式を止揚させてみた「後で」共産主義を想定してみる。そこでは資本主義的様式の構造的メカニズムの欠落を問うことが主眼ではなく新たな社会の中での経済の在り方を提示することになる。ここで考えられる経済あるいは「進歩」とはベンヤミンのヴィジョンだとマルクスより前の時代のフーリエの思想である。フーリエはとりわけ科学と技術が全面に展開するが経済の人間の搾取や人間による自然の搾取という捉え方とは無縁である点にベンヤミンは注目している。